AIの急速な発展とともに、膨大な電力需要が世界中のデータセンターに押し寄せている。再生可能エネルギーだけでは賄いきれない将来の需要に応える存在として、原子力発電への期待が再び高まっているが、その業界特有の「スピードの遅さ」は依然として課題だ。そんな中、「ChatGPT for nuclear（原子力版ChatGPT）」を掲げるスタートアップAtomic Canyonが注目を集めている。医療テック業界で成功を収めたシリアル起業家トレイ・ローダーデール（Trey Lauderdale）が創業した同社は、AIによって原子力業界の“紙の迷宮”を突破しようとしている。
1. Diablo Canyonから生まれたAIスタートアップ
1-1. 地元の原発が着想の原点に
ローダーデールの関心は、彼の地元カリフォルニア州サンルイスオビスポのディアブロ・キャニオン原子力発電所（Diablo Canyon Power Plant）から始まった。「あの人たちは僕たちのフラッグフットボールチームのコーチなんです」と彼は語るように、身近な人々との対話を通じて、原子力発電所が抱える“情報の山”の存在に気づいた。 「ディアブロ・キャニオンには20億ページ分の文書があるそうです」とローダーデールは言う。文書の煩雑さは、現場の技術者や保守作業員、コンプライアンス担当者にとって大きな負担となっている。
2. AIで「文書の迷路」を解きほぐす
2-1. 文書検索に特化したAIモデル
Atomic Canyonは、AIによって膨大な原子力文書の検索性とアクセシビリティを向上させることを目的とする。検索機能のコアには、RAG（Retrieval-Augmented Generation）がある。これは大規模言語モデル（LLM）が回答を生成する際、関連する文書に基づいて応答する仕組みで、AIの「幻覚」（不正確な出力）を減らす狙いがある。
「最初は一般的なAIモデルを使ってテストしましたが、核関連の専門用語になると正確性が著しく低下したんです」とローダーデールは振り返る。「AIはそれらの略語や語彙を十分に学習していなかった」という課題に直面した。
2-2. 世界第2位のスーパーコンピュータを活用
そこでローダーデールは、オークリッジ国立研究所（Oak Ridge National Laboratory）に掛け合い、20,000GPU時間分のコンピューティングリソースを獲得。AIモデルの訓練に必要な計算能力を確保した。オークリッジは核研究の拠点であり、同時に世界屈指のスーパーコンピュータ「Frontier」を保有している。
3. スタートアップとしての躍進
3-1. ディアブロ・キャニオンとの契約と資金調達
2024年後半、Atomic Canyonはついにディアブロ・キャニオン原発との契約を締結。これが呼び水となり、他の原発事業者からも問い合わせが殺到したという。「これは資金調達のタイミングだ」とローダーデールは直感し、700万ドルのシード資金を調達した。リード投資家はEnergy Impact Partnersで、他にもCommonweal Ventures、Plug and Play Ventures、Tower Research Venturesなどが参加している。
4. 高リスク領域では慎重に、基盤から固める戦略
4-1. まずは「検索」から、着実に精度を追求
「私たちは今、文書のタイトル生成など、リスクの低い生成AI領域から始めています」とローダーデールは語る。万が一間違っても、文書の見出しが少し不正確になるだけで、発電所の安全には直結しないからだ。
将来的には、AIが「初稿となる文書ドラフト」を生成し、引用付きで提示する仕組みも構想しているが、「必ず人間のチェックを入れる」ことを前提としている。現時点では、「検索精度を極めることが何よりも重要」だという。
5. 原子力×AIという未開拓領域への挑戦
原子力業界は慎重で保守的な産業であるがゆえに、イノベーションの浸透には時間がかかる。だが、AIの力を使えば、文書管理やナレッジ検索といった間接業務から安全性と効率性を底上げすることが可能だ。ローダーデールは、「検索という“土台”を固めることで、その先の生成AI活用にも繋がっていく」と語る。
Atomic Canyonの取り組みは、単なる“AI導入”ではなく、高リスク業界における慎重な技術実装モデルの好例ともいえる。次世代インフラとしての原子力と、生成AIというテクノロジーの融合。その第一歩は、意外にも「検索精度」という地味な領域から始まっている。