本記事では、ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ポーター教授による競争戦略に関する講義内容をもとに、競争環境の分析手法と企業が産業内で持続的な優位性を築くための基本的な考え方をわかりやすく解説します。ポーター教授は、競争戦略論の第一人者として知られ、『競争戦略』(Competitive Strategy)や『競争優位』(Competitive Advantage)などの著書を通じて、企業のポジショニングや戦略立案のフレームワークを提唱してきました。特に、本講義では以下の二つの問い(①「産業の構造・魅力度はどのように見極めるか」、②「企業はどのように産業内で卓越したパフォーマンスを実現するか」)を中心に、その具体的手法や事例を学びます。本記事では、ポーター教授が提示する「5つの競争要因(Five Forces)」フレームワークの概念を紹介し、製薬業界や航空業界などの具体例を交えながら、企業が自ら戦略を構築・修正する重要性を提示します。
1. 競争戦略の概要
1-1. 競争戦略とは何か?
ポーター教授は、「競争戦略(Competitive Strategy)」を「企業が自らの競争環境の中で、いかにポジションを定めるかという営み」であると定義します。単なる製品やブランドのポジショニングにとどまらず、「生産、流通、ロジスティクス、サービスなど、企業活動のあらゆる機能を含めた総合的なポジショニング」であり、産業全体の中でどのように立ち振る舞うかを設計することが求められます。
講義冒頭でポーター教授は、「競争戦略は、企業が自らの競争環境においてどのように位置づけるか(Positioning)という行為です。製品ポジショニングやマーケティング起点ではなく、企業全体の機能を包括して考えなければなりません」と強調します。この「ポジショニング」という概念は、企業の機能やコスト構造、サービス体制までも含めて、「競争優位を確立できる土台」を示すものです。
1-2. 戦略立案における二つの基本的問い
ポーター教授は、戦略立案の際に常に立ち戻るべき二つの根本的な問いを提示します。
① 産業(Industry)の構造や魅力度はどのようなものか?② 企業はその産業内で、どのように卓越したパフォーマンスを実現できるか?
①産業の構造・魅力度
ある産業が高収益を維持できるかどうかは、産業全体を取り巻く要因(後述の「5つの競争要因」)によって決まります。収益性が高い産業と低い産業では、その構造における要因が大きく異なるため、まずは、産業分析を通じて「このゲーム(産業)はどれだけおいしいのか」を正確に把握する必要があります。
②企業の産業内ポジション
同じ産業の中でも、企業ごとに収益性は大きく異なります。産業全体の魅力度が高くても、ある企業は常に競合に押されて低収益に悩む一方で、別の企業は安定的に高収益を上げ続けることがあります。なぜ企業ごとに収益性が異なるのか、その要因を明らかにし、持続的に競争優位を築く方法を模索することが戦略の核心です。
以上の二つの問いに対する答えを見つけるために、本講義では「産業分析(Industry Analysis)」と「企業戦略(Company Strategy)」という二つの軸を順に解説します。
2. 産業分析と5つの競争要因(Five Forces)
産業分析では、まず「業界の収益性を規定する要因」を明らかにします。ポーター教授は、産業に影響を及ぼす競争要因として以下の5つを挙げています。
- 既存企業間の競争(Rivalry among Existing Competitors) 同業他社が限られた市場シェアを奪い合うために価格競争や差別化策を強化する状況です。競争が激しければ利益率が低下し、長期的な成長が阻害されます。業界内の企業数や製品の差別化程度、参入障壁の高さが競争の激しさに影響します。
- 新規参入の脅威(Threat of New Entrants) 参入障壁が低い産業では新たなプレーヤーが市場に参入しやすく、既存企業の市場シェアや利益を脅かします。資本投下や技術的ノウハウ、ブランド力、規制対応などの要素が参入障壁を形成し、高いほど脅威は減少します。参入が相次ぐと価格競争が激化し、収益性が低下する可能性があります。
- 代替品・代替サービスの脅威(Threat of Substitutes) 顧客が同じニーズを満たす別の製品やサービスに乗り換えやすい場合、業界全体の価格競争力や収益力が低下します。代替品が持つ機能やコスト優位性、顧客の切り替えコストの低さが脅威の度合いを左右します。代替品の出現や技術革新によって、既存製品が陳腐化するリスクも高まります。
- 供給者(サプライヤー)の交渉力(Bargaining Power of Suppliers) 特定の原材料や部品を一手に握る大手サプライヤーが価格や供給条件を有利に設定できると、製造コストが上昇し、利益率が圧迫されます。サプライヤーの集中度が高く、代替供給源が少ない業界ほど交渉力は強くなります。自社で調達多様化や垂直統合を進めることで影響を抑制できます。
- 買い手(バイヤー)の交渉力(Bargaining Power of Buyers) 買い手が少数で購入量が大きい場合や、競合製品の選択肢が豊富な場合には、価格交渉や品質要求が強くなります。バイヤーの情報収集能力や切り替えコストの低さも交渉力を高める要因です。売り手にとっては、差別化や顧客ロイヤルティを強化してバイヤー依存度を下げることが重要です。
2-1. 既存企業間の競争
産業の中心に位置するのが、既にその産業に参入している企業同士の「競争(Rivalry)」です。価格競争、新製品の投入、増産体制の構築などがその典型例であり、産業によっては「非常に凶暴(Cutthroat)」な競争が行われる一方、穏やかな競争にとどまる産業もあります。この競争の激しさは以下のような構造要因によって左右されます。
- 産業の成長率:成長が緩やかな産業では企業同士が限られたシェアを奪い合うため、競争が激化しやすい。
- 固定費の高さ:固定費が高いと稼働率を維持するために、価格を下げてでも稼働を保とうとする動きが生まれやすい。
- 製品・サービスの差別化度合い:差別化が困難な製品ほど、価格競争に陥りやすい。
ポーター教授は、「既存企業間の競争だけを見て産業を判断するのは間違いであり、産業構造は5つの要因が絡み合うことで決まる」と指摘します。
2-2. 新規参入の脅威
新たな競合企業が参入しやすい産業では、既存企業は常に価格低下圧力や利益率の縮小圧力にさらされます。参入障壁(Barriers to Entry)が高いか低いかは、産業の収益性を大きく左右する要素です。参入障壁を高める要因としては以下が挙げられます。
- 規模の経済(Scale Economies):既存企業が大量生産によるコスト削減を実現している場合、新規参入企業は同等のコスト構造を構築するのが難しい。
- 資本規模の必要性:巨大な設備投資や研究開発投資を伴う産業では、新規参入は非常にハードルが高い。
- ブランド力・販売チャネル:既存企業が強固なブランドや流通網を築いている場合、新規参入企業は顧客を獲得しづらい。
- 政府規制・ライセンス:政府が参入を厳しく制限している産業では、容易に新規参入できない。
これらの要因が強ければ強いほど、新規参入の脅威は抑制され、既存企業は長期的に高い利益を享受できます。
2-3. 代替品・代替サービスの脅威
顧客は常に「同じニーズを満たす別の製品やサービス(Substitute)」を探す可能性があります。たとえば、製鉄業では「プラスチック」や「アルミニウム」などが代替材料となりうるため、鉄鋼企業は価格を上げすぎると顧客があっさりそちらに乗り換えてしまうリスクがあります。代替品の脅威が強い産業では、価格設定に上限が生じ、収益性が制約されます。
2-4. 供給者の交渉力
企業は生産のために原材料や部品、労働力といった「投入要素」を外部から調達します。供給者が少数独占的な立場にあったり、差別化された商品を提供していたりすると、「供給者の交渉力(Supplier Power)」が強まり、原価が釣り上げられ、産業全体の利益率を押し下げる圧力となります。供給者の力を弱めるには、複数の供給源を確保したり、代替原料を開発したりといった戦略が必要です。
2-5. 顧客の交渉力
最終的に製品やサービスを購入する「顧客(バイヤー)」も、強い立場を確立していれば、価格を引き下げたり、より高品質・手厚いサービスを要求したりすることで、産業の収益性を損ないます(講義5:46〜5:59)。特に顧客が少数で集中している場合や、商品に大きな差別化要素がなく「買い替えコスト」が低い場合、バイヤーの交渉力は強まります。
まとめ:産業の長期的な収益性は、これら5つの要因の強さやバランスによって決まるため、あらゆる産業では、まず「どの要因が最も重要か」を見極め、産業構造を正確に把握することが戦略立案の第一歩となります。
3. 具体的産業例による5つの力の検証
産業分析の理解を深めるために、ポーター教授は2つの代表的な産業――製薬業界と航空業界――を取り上げ、5つの力がどのように相互作用するのかを具体的に示します。
3-1. 製薬業界(高収益産業の典型例)
製薬業界は、世界で約800億ドル規模を誇り、長年にわたって極めて高い利益率(自己資本利益率20%前後)を維持している「ゴールドマイン(坑道の金鉱)」のような産業です。なぜこれほどまでに収益性が高いのか、5つの競争要因で見ていきます(講義7:24〜9:10)。
- バイヤーの交渉力が弱い
- 医師(処方者)、患者、保険者(支払者)のいずれも、価格に対して「極めて非価格志向」である。患者は命や健康を最優先にし、保険者も医療費をカットすると政治的・社会的バッシングを受ける可能性があるため、価格交渉力は著しく限定的です。
- 新規参入の障壁が非常に高い
- 医師に自社製品を採用してもらうには、何千人もの営業担当(Detail Men)を雇い、多大なコストをかけて営業活動を行う必要がある。
- 「新薬開発」自体が平均1億ドル以上(うち6,000万ドルが臨床試験費用)、かつ数年を要する巨額の投資を伴う。1950年代以降、目立った新規参入はほとんどない。
- 代替品の脅威が低い
- 有効性が認められた薬剤は、少なくとも特許期間内は強い競争優位を持ち、同等の効用を示す代替薬の登場には長い時間がかかる。したがって、製薬業界にとって代替品の脅威は限定的です。
- 供給者の交渉力が弱い
- 原材料(化学物質など)はほとんどコモディティ化しており、供給者側が価格を押し上げにくい。
- また、医薬品製造に必要な原料費は総コストに占める割合が小さく、高い交渉力を持つサプライヤーは少ない。
- 既存企業間の競争が穏やか
- 製薬企業同士は、一般に価格競争を避け、「ブランド力」「研究開発力」「営業ネットワーク」などで差別化を図っており、価格を下げるインセンティブは乏しい。製品自体が差別化されているため、競争は比較的「礼儀正しい(Gentlemanly)」ものとなります。
以上を踏まえ、製薬業界では5つの競争要因がいずれも有利に働き、長期的に高い利益率を維持できる構造になっていることがわかります。ポーター教授はこのような産業を「フェスタ産業(Favorable Industry)」と呼びます。
3-2. 航空業界(低収益産業の典型例)
一方、航空業界は長年にわたり「低収益・低利益率」に苦しんできた産業です。その背景には以下のように、5つの競争要因の多くが企業に不利に働く構造が存在します(講義10:47〜12:43)。
- 新規参入の障壁が低い(特に規制緩和後)
- 規制緩和前(戦後しばらく)は、政府が運賃や路線を厳しく管理していたため参入障壁が高かった。しかし規制緩和後は、数機の航空機があればすぐに新規航空会社として参入でき、多くの競合が乱立するようになった。
- バイヤーの交渉力が高い
- 顧客は価格に非常に敏感で、運賃比較サイトや格安チケット情報を容易に入手できるため、ちょっとした価格差で乗り換えが発生しやすい。
- 航空会社ごとのサービスに対する顧客の拘りは相対的に低く、乗りたい便や最安値を重視する傾向が強い。
- 既存企業間の競争が激烈
- 航空ビジネスは固定費と設備投資が非常に大きく、離陸した飛行機は満席でなくても運航する必要があるため、座席を埋めるために運賃を引き下げる競争が頻発する。
- 各航空会社は、A社が値下げすればB社も追随し、結果的に「過酷な価格競争(Cutthroat Rivalry)」が常態化する。
- 代替品の脅威は大きくないが、短期視点の需要変動が影響
- 長距離移動に関しては代替手段(新幹線など)があるものの、航空が最も効率的な場合が多く、大きな代替圧力は比較的限定的です。ただし、短距離や国内移動においては、陸上交通手段との競合が生じる場合がある点には留意が必要です。
- 供給者の交渉力がやや強い
- 航空機製造企業(ボーイングやエアバス)や航空機エンジンメーカーは寡占的な立場を占めており、運賃収入を増加させても燃料費や機体リース料などのコストは容易に削減できない。
- 加えて、多くの空港は「特定航空会社との結び付き」が強く、新規参入やスロット確保が難しい場合もあり、一定のサプライヤー・プレッシャーを受けやすい。
これらの要因により、航空業界は長年にわたって低収益な構造を強いられてきました。ただし講義後半では、「産業構造は固定的ではなく、環境要因や企業の戦略によって変化しうる」ことを示す事例として、以下のような変化が紹介されます(講義13:02〜18:09)。
3-2-1. ハブ・アンド・スポークシステムの導入
アメリカの主要航空会社が大規模空港を「ハブ(Hub)」と定め、そこに各路線を集中させる運航方式を採用することで、「フライト数の集中」「乗り継ぎ効率の向上」「便数の弾力的運用」が可能になりました。結果として、顧客への利便性が高まり、固定費を効率的に吸収できるようになり、参入障壁をある程度高める効果も生じました(講義15:59〜16:32)。
3-2-2. 情報システムの高度化
大規模な予約・発券・運航ダイナミックプライシングなど、デジタル化された管理情報システムへの投資は数千万ドル~数億ドル単位にのぼります。これらの膨大な設備投資を維持・更新する必要があるため、実質的に新規参入コストを押し上げ、既存航空会社に一定の優位性を与えました。
3-2-3. マイレージ・プログラムの普及
顧客を自社便に囲い込むために、ポイント付与や優先搭乗などの特典を提供する「マイレージプログラム」が導入されました。これにより、乗客は特定の航空会社に対してロイヤルティを高め、「最安値だけで乗り換える」行動が抑制され、バイヤーの交渉力を部分的に低減させる効果が生まれました。
これらの構造変化により、一度は「低収益産業」とされた航空業界も、徐々に参入障壁が再形成されたり、顧客囲い込みが進んだりして、産業自体の魅力が部分的に改善されつつあります。したがって、産業分析においては「静的な構造」を把握するだけでなく、「将来どのように構造が変化しうるか」を常にモニタリングすることが重要です。
4. 企業の優位性の追求:ポジショニングと戦略選択
産業分析で「業界の収益性」を把握したら、その上で個別企業は「どのように産業の中で優れたパフォーマンスを実現するか」を考えなければなりません。ポーター教授はこれを「企業戦略(Company Strategy)」と呼び、以下の要素を重視しています。
- 持続的競争優位性(Sustainable Competitive Advantage)の獲得
- 競争優位性のタイプ:
- 低コスト優位性(Cost Leadership)
- 差別化優位性(Differentiation)
- 競争スコープ(Competitive Scope)の広さ:
- 広域戦略(Broad Strategy)
- フォーカス戦略(Focus Strategy)
4-1. 持続的競争優位性とは
そもそもなぜある企業が他社よりも常に高い利益を得られるのかを解明するには、「持続的競争優位性」をいかにして築くかがポイントです。ポーター教授は、「企業は、自社しか持ちえない、または模倣困難な『強み』を保持し続けることで、他社よりも高い利益率を得ることができる」と述べます。この競争優位性は次の二つの方法で得られます。
- 偶然的に模倣困難な独自要素を発見する場合
- 継続的な改善努力により、他社が追い付けないように自ら成長を続ける場合
→ 例:世界初の画期的技術など。ただし再現性は低く、稀有なケース。
→ 多くの成功企業は、このパターンで持続的競争優位性を構築している。
4-2. 競争優位性の二つのタイプ
企業が追求しうる競争優位性には、「コスト優位」と「差別化」という二つの大枠があります(講義21:08〜22:01)。
- コスト優位性(Cost Leadership)
- 狙い:業界平均と同等の価格を維持しつつ、他社より低コストで製品やサービスを提供する。
- ゴール:他社が同じ価格を維持しても、自社はより低コスト構造のために高い利益率を確保できる。
- 要件:製品品質を一定水準以上に保ちつつ、付加機能やフリルを削減し、コストドライバー(製造、調達、流通など)を徹底的に最適化する。
- 差別化優位性(Differentiation)
- 狙い:顧客が重要視する独自の機能・ブランド・サービスなどを提供し、プレミアム価格を設定できるようにする。
- ゴール:同じ商品やサービスが他社と同じ価格帯であっても、顧客が「差」を認識して割高でも購入することで、自社は高い利益率を享受する。
- 要件:研究開発投資、ブランド構築、顧客関係管理などを通じて模倣困難な付加価値を提供し続ける。
4-3. 競争スコープ(Scope)の選択
さらに、自社がどの顧客層や製品ラインをターゲットにするか(広域か集中か)を決めることで、戦略は大きく4つに分類されます。
- 広域×コストリーダーシップ
- 広域×差別化
- 集中(フォーカス)×コスト(コストフォーカス)
- 集中×差別化(差別化フォーカス)
全顧客層に向けて低コスト製品を提供し、市場シェアを最大化して収益を拡大する。
例:ウォルマート(小売業)、アマゾンのプライム戦略(Eコマース業界)など(講義例)。
多様な顧客層に対し、高度に差別化した製品・ブランドを展開し、プレミアム価格を維持して高い利益率を追求する。
例:アップル(スマホ・PC市場)、BMW(自動車市場)など。
特定のニッチ市場やニッチ顧客層に照準を絞り、その領域内で特化した低コスト構造を築く。
例:Linta(米国テキサス州を中心とした中・小規模モーテル)、エミーソン・エレクトリック(特定工業製品系)など。
限定されたセグメント内で独自の差別化戦略を追求し、高い付加価値を提供することでプレミアム価格を獲得する。
例:高級時計ブランドのロレックス、特定市場に特化したソフトウェアベンダーなど。
ポーター教授は、「中途半端に両方を目指す『中途半端戦略(Stuck in the Middle)』は最も避けるべきで、必ずどちらかの軸で明確な立ち位置を築かなければならない」と繰り返し強調します。自社が「何を最も大切にするのか」を明確にしたうえで、あらゆる機能や活動をその立ち位置に整合させることが、戦略実行の肝となります。
5. 低コスト戦略の具体事例
ポーター教授は、低コスト戦略を実践する企業として以下の3社の事例を取り上げ、その成功要因を解説します。
5-1. Ivory(プロクター・アンド・ギャンブル:Broad Cost Leadership)
5-1-1. 背景と戦略転換
- 歴史的背景:1879年、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)は。「Ivory(アイボリー)ソープ」を市場に投入しました。当時、石鹸市場には300社以上が参入し、多くは「粗悪な石鹸」か「高価格な高級石鹸」を扱っていました(講義27:12〜27:54)。
- 差別化戦略の初期:Ivoryは、「純度99と44/100%の純粋さ(“99と44/100% Pure”)」をコンセプトに掲げ、白く、かつ「浮かぶ」という差別化要素を採用しました。特に「浮かぶ」という特徴は製造過程の偶然から生まれたもので、当時の消費者に大きな注目を浴びました。
- P&Gは、「Ivoryは浮かぶ石鹸であり、より純粋な製品である」という強烈なメッセージを広告に載せ、「99と44/100% Pure」という自社定義の純度基準を創出してブランド化しました。
5-1-2. 差別化から低コストへの戦略転換
1950年代〜1960年代に入り、DialやDoveといった新たな差別化石鹸(消臭・美肌機能など)が台頭するようになります。これら新商品はIvoryの「純度・浮く」という差別化ポイントを脅かす存在となりました。
- P&Gは最初、Ivoryに新機能を追加する案を検討しましたが、最終的には「Ivoryそのものを機能追加せず、純粋な『ベーシック・ソープ』として位置づけ直す」戦略を選択しました。
- 従来のIvoryの「白くて浮く、純度の高さ」はそのままに、不要な付加機能を削ぎ落とし、「シンプルで基本的な石鹸」を提供することで、コストリーダーシップに舵を切ったのです。
5-1-3. 低コスト戦略の具体施策
- 製品設計:アイボリーは「泡を多く含ませる」ことで、従来の同等サイズの石鹸よりも材料量を削減しました。不要な香料や美肌成分を一切省き、「ミニマムな成分構成」に徹したことでコストを抑えます。
- パッケージ:無駄な装飾(光沢のある紙、派手なデザイン)を排除し、包装資材を極限までスリム化。さらに、まとめ買い(バンドル販売)を推奨し、製造~流通の効率化を促進しました。
- 広告費の最適化:長年にわたるブランドイメージの積み重ねによって、アイボリーはいわゆる「トラフィック・ビルダー(集客装置)」として小売店にも重宝される存在となり、トレードプロモーション費用を抑えながらも高い販促効果を維持できました。
- 規模の経済:P&G全体の購買力や流通チャネルを活用し、原材料調達コスト、製造コスト、流通コストを他社よりも有利に構築しました。
これらの戦略により、Ivoryは「プレミアムブランド」とは異なる立ち位置ながら、同等の品質感を持つ石鹸をより低価格で提供することで高いシェアを維持し、業界内で確固たるコストリーダーとして君臨するに至りました。
5-2. Linta(リンダ:Focus Cost Leadership)
5-2-1. ターゲット顧客と集中戦略
- 創業背景:1968年、米国テキサス州で創業したモーテルチェーン「Linta(仮称)」。運営者は「Sam Barshop」という創業者夫妻で、モーテル経営に特化したビジネスモデルを築きました。
- フォーカス顧客:「頻繁に同じ地域を出張する営業担当者」などのビジネストラベラーをターゲットに、低価格帯ながらも「快適な宿泊体験」を提供します。平均的なLinta利用客は、年に17泊前後を同チェーンで過ごし、「部屋のクオリティ」「立地」「静寂性」を最重視する顧客層でした。
5-2-2. 低コスト・フォーカス戦略の具体施策
- 立地戦略(Location, Location, Location):各モーテルは主要高速道路沿い、産業団地や空港近接エリアに立地。これにより、ビジネス出張者の利便性を最大化しつつ、自前でレストランを持たず、徒歩圏内に24時間営業の飲食店(多くはデニーズ)を配置し、モーテル側の余計な施設投資を省略しました。
- 客室設計:広さは競合大手ホテル(HiltonやMarriott)と同等以上。全室コンクリート構造&防音対策により、「静かで快適な睡眠環境」を確保すると同時に、修繕コストを低減しました。
- 不要サービスの排除:レストラン、ルームサービス、ロビーの大型ロビー、ビジネスセンターなど「低フォーカス顧客には不要なサービス」を徹底的に省き、初期投資および運営コストを抑制。
- 経営者夫妻による自己管理:ほとんどのモーテルチェーンは、ホテルマネージャーを雇用し、多層的な管理体制を敷きますが、Lintaは各施設を「オーナー夫妻が居住しつつ一手に管理」するユニークな仕組みを採用。これにより、
- 管理コストを削減
- 従業員の定着率向上・教育コストの低減
- 「家族的なホスピタリティ」を実現し、顧客満足度を高める
- メンテナンス教育:施設内に設置した「メンテナンス研修室(Maintenance Training Lab)」で、経営者夫妻はドアのネジ、エアコン、テレビ、配管などあらゆるトラブルシューティングを学び、現場で即座に修繕できる体制を整備しました。これにより、外注コストを排除し、修繕待ちによる部屋稼働率低下を防止しました。
- コストカルチャーの根付かせ:企業文化として「1ドルではなく1セントの削減を追求する」「時間短縮を徹底する」というコスト意識を全社的に浸透させ、建設コスト、建材選定、備品調達、清掃プロセスに至るまで徹底的に最適化しました。
といった効果を得ました。
これらの施策により、Lintaは部屋一泊あたり約40ドルという低価格を実現しつつ、顧客が最も重視する「静けさと快適性」を維持。結果として、Lintaの顧客は高いロイヤルティを示し、同社は長期にわたって「ビジネスフォーカス顧客に最適化された低コストホテル」として成功を収めました。
5-3. Emerson Electric(エミソン・エレクトリック:Best Cost Producer)
5-3-1. 企業概要と「最適コスト生産者(Best Cost Producer)」の考え方
Emerson Electric Companyは、主に産業用機器や家電製品を手がける米国の大手エレクトロニクス企業です。Chuck Knight前CEOは、自社を「Best Cost Producer」として定義し、単なる「最安値生産者」ではなく、「品質・コストの両立を追求することで、競合他社に対して優位性を築く」というアプローチを採用しました。
5-3-2. Emersonの6つの要点
Chuck Knight氏は以下の6点を高次元で実践することで、EmersonをBest Cost Producerに押し上げたと語ります。
- 品質(Quality)
- 低コスト=品質を犠牲にする、という固定観念を打破。あらゆるプロセスやシステム全体で品質を追求し、「品質とコストは相補的(Complimentary)」であることを全社で共有しました。
- 競合他社のコスト理解(Knowing Competitor’s Cost)
- 自社の製品に加えて、競合他社の製品・コスト構造も徹底的に分析。従業員全員が「競合製品を手に取り、コストを突き合わせる」ことで、「なぜ自社がコストを下げなければならないのか」を明確にし、社内に強い競争意識を醸成しました。
- 変化への受容性(Receptivity to Change)
- 組織文化として、常に生産性向上やプロセス改善の機会を探し続ける風土を醸成。市場・技術環境の変化に迅速に対応し、柔軟に設備・工程を見直すマインドを全社的に浸透させました。
- フォーマルなコスト削減プログラム(Formalized Cost Reduction Program)
- 年度ごとの計画立案や四半期ごとのレビューを通じて、工場・事業部単位で明確なコスト削減目標を設定。全社的に進捗をモニタリングし、計画未達の場合は速やかに是正策を講じる仕組みを整備しました。
- 強力なコミュニケーション(Strong Communications)
- コスト削減の目的や手法を全社員に徹底して教育し、「経営陣 vs. 現場」という対立構造ではなく、「共に戦うべき相手は競合企業である」という意識を共有。各プロジェクトの成果や進捗を透明に開示し、全員が当事者意識を持てる体制を実現しました。
- 資本投下のコミットメント(Commitment of Capital)
- コスト削減を実現するためには、必要な場合に設備投資や情報システム投資を惜しまない。単にコストを切り詰めるのではなく、「戦略的投資によって、結果的にコストを長期的に低減する」スタンスを取ることで、持続的な効果を生み出しました。
5-3-3. 実践的な事例:工場ごとのコスト削減プロジェクト
- Emersonでは、各工場(Plant)に「コスト削減責任者」を置き、毎年設定される達成目標に向けて数百件におよぶ削減プロジェクトを並行推進します。プロジェクト例としては「部品調達における新サプライヤー開拓」「生産工程改善」「エネルギー効率向上」「在庫適正化」など多岐に渡ります。
- 四半期ごとに本社で進捗レビューを実施し、目標未達の場合は追加施策を講じるなど、PDCAサイクルを徹底的に回します。
- 従業員一人ひとりが「自分がどのプロジェクトを担当し、どれだけのコストを削減したか」を把握し、「競合他社とのコスト差が自分たちの成果に直結する」という意識形成を図ります。
これにより、Emersonは「製造コスト・設計コスト・流通コスト・アフターサービスコスト」に至るまで、あらゆる局面でコストを徹底的に管理しつつ、「品質」「信頼性」を両立させることで、「Best Cost Producer」というポジションを確立し、業界内で卓越した収益性を維持し続けました。
6. フォーカス戦略のポイントと教訓
ここまで見てきたように、コストリーダーシップ戦略には「広域型(Ivory)」と「集中型(Linta)」の二通りがあります。ポーター教授はフォーカス戦略において特に重要な以下の点を強調します。
- ターゲットセグメントの選定と顧客ニーズの把握
- 「フォーカス戦略は、顧客のニーズが他と“異質”であることを前提とする」ため、ターゲット顧客の特性を深く理解し、その顧客だけが重視する価値を提供する必要があります。
- Lintaの例では、「頻繁に同じ地域を訪れるビジネストラベラーが『静かさ』と『立地利便性』を最優先にする」というニッチニーズを徹底的に狙ったため、顧客満足度を高めつつコストを削減できました。
- 「戦略の焦点をぼかさない」ことの重要性
- フォーカス戦略では、「少しの顧客や市場を逃すだけでコスト優位性が失われる」ため、余計な機能やサービスを絶対につけ加えてはいけません。Lintaが「バー(飲み物提供設備)」を導入せず、必要最小限のサービスに徹したのは、まさに戦略フォーカスを維持するための明確な意思表示です。
- 顧客との双方向コミュニケーションと継続的調査
- ニーズは変化するため、定期的に顧客調査(アンケート、インタビュー、現地視察)を行い、顧客の「本質的な不満点や希望」を把握し続ける必要があります(講義57:20〜57:27)。
- Lintaも定期的に「顧客が本当に求めているもの」をヒアリングし、新たに「無料コーヒー」「有線テレビ」「無料電話」など、必要なサービスを順次追加していきました。
これらの教訓は、フォーカス戦略に限らず、あらゆる戦略が成功するか否かは「顧客理解の深さ」と「市場焦点の明確さ」に大きく依存することを示しています。
7. 戦略の継続性と変化への対応
ポーター教授は、「戦略とは一度決めたら放置するものではなく、産業構造の変化や顧客のニーズ変化に応じて、戦略自体も修正・変更されるべき」と述べます。これは、Ivoryの差別化→低コストへの転換や、航空業界の構造変化事例に示された通りです。
7-1. 戦略は変化しうるもの
- 製薬業界でも、後発医薬品(ジェネリック薬)の台頭や、バイオテクノロジーの登場によって参入障壁や供給者・バイヤーの交渉力に変化が生じ、既存企業は研究開発プロセスの再構築や価格戦略の見直しを迫られています。
- 航空業界でも、ハブ&スポーク化、情報システム投資、マイレージプログラム導入などによって、参入障壁やバイヤーの交渉力が構造的に変化し、それに応じて既存航空会社は運用戦略やサービス設計を柔軟に見直す必要に迫られました。
7-2. 企業が産業構造に影響を及ぼす力
ポーター教授は、「企業は受動的に産業構造に従うだけではなく、能動的に産業構造を形成・改善する力を持っている」と説きます。たとえば:
- Lintaのようにフォーカス顧客を明確化し、不要サービスをそぎ落としていくことで、『モーテル業界は高機能サービスが必須である』という常識を崩し、参入障壁やコスト構造に影響を与えた。
- Ivoryが「大量まとめ売り(バンドル)」の手法をいち早く導入し、小売店の売り場構造を変化させ、石鹸業界における購買行動や流通チャネルのあり方を改善した。
- 航空会社がハブ&スポーク化を推進し、空港運用や乗り継ぎインフラの整備を促進したことで、航空業界全体のビジネスモデルを変革した。
このように、「企業自らが戦略を作動させることで、産業の5つの競争要因を動かし、構造そのものをより有利な方向にシフトさせる」ことが可能であり、それが「戦略的主導(Shaping Industry Structure)」の要諦です。
以上の示唆を踏まえ、自社がどの産業・どのセグメントでビジネスを行うのかを起点に、産業構造の定量的・定性的分析を徹底し、さらに「自社が将来どのように産業構造を変化させられるか」を予見しながら、戦略を設計・実行していくことが求められます。
最後に、ポーター教授が「戦略を考えずに、ただ製品やサービスを売ろうとする企業は、必ずマーケットの波に押し流される」と述べた言葉を引用し、本稿を締めくくります。
「両足を動かし続けなければ、川の流れの中で生き残ることはできません。戦略とは、ただ製品を作ることではなく、自社の『ゲーム』を見極め、いかに勝ち続けるかを描く行為なのです。」
この言葉の真意は、「戦略を持たない企業は、激変する環境の中でいつの間にか競争に破れ、淘汰されてしまう」という、ポーター教授からの厳しい警鐘と言えるでしょう。